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2018年3月13日火曜日

記憶のログ 2017/04/09/日曜日 ジンジャークッキー 年をとること


 午前中、子供たちと妻がジンジャークッキーを作ってくれた。たくさんお手伝いをしてくれたらしい。とても上手にできている。おいしい。カリッと焼けていて素朴な味。甘すぎないのとジンジャーの香りが少しするのがよい。子供が食べにくいと困るのでジンジャーは気持ち少なめにしたと妻が言っていた。型抜きをするのも楽しんで上手にしたそうだ。三人ともありがとう。
 午後、お弁当を持って家族でお花見に行く。時折、強い風の吹く春らしい天気。公園へ行ったので、お花見をしながら子供たちと存分に遊ぶことができた。走り回るのも遊具で遊ぶのも楽しかった。娘が「とうとう、おいでー」と呼んでくれる。よく遊んだ後にお弁当。シートを広げて飛ばないように準備する。子供たちはお外でご飯やおやつを食べるのが好き。今日も妻の作ったお弁当をおいしそうに食べていた。よいお花見だった。
 近頃、家に帰って妻と子供たちの顔を見るとすごく気持ちが安らぐのがわかる。肩の力が抜けるというか、心でそれが起こっている感じ。ほっとする。三人の顔が見られることに喜びや嬉しさを感じる。そういうことが多くなってきた。
 帰宅して子供たちがまだ起きていて、少しでも話ができると嬉しい。妻と子供に会いたいからできるだけ早く帰る。そんな風に自分が思うようになるとは過去の私(少なくとも20代の私)には想像もつかなった。
 そう書いていて思い出したのだが、年をとることをについて、村上春樹が興味深いことを書いていた。少し長いが引用しておこう。

 僕は今、五十代の後半にいる。二十一世紀などというものが実際にやってきて、自分が冗談抜きで五十代を迎えることになるなんて、若いときにはまず考えられなかった。もちろん理論的にはいつか二十一世紀は来るし、(なにごともなければ)そのときに僕が五十代を迎えているというのは自明の理なのだが、若いときの僕にとって五十代の自分の姿を思い浮かべるのは、「死後の世界を具体的に想像してみろ」と言われたのと同じくらい困難なことだった。ミック・ジャガーは若いときに「四十五歳になって『サティスファクション』をまだ歌っているくらいなら死んだ方がましだ」と豪語した。しかし実際に彼は六十を過ぎた今でも『サティスファクション』を歌い続けている。そのことを笑う人々もいる。しかし僕には笑えない。若き日のミック・ジャガーには四十五歳になった自分の姿を想像することができなかったのだ。若き日の僕にもそんなことは想像できなかった。僕にミック・ジャガーを笑えるだろうか? 笑えない。僕はたまたま、若くて高名なロック・シンガーではなかった。僕が当時どんなに愚かしいことを言ったとしても、誰も覚えていないし、したがって引用されることもない。ただそれだけのことではないか。
 そして 現在、僕はその「想像もつかなかった」世界の中に身を置いて生きている。そう考えるとなんだかおかしくもある。そこにいる僕という人間が幸福なのか不幸なのか、自分でもうまく見きわめがつかないけれど、それは取り立てて問題にしなくてもいいことのように思える。僕にとって——あるいは他の誰にとってもおそらくそうなのだろうが——年をとるのはこれが生まれて初めての体験だし、そこで味わっている感情も、やはり初めて味わう感情なのだ。以前に一度でも経験したことがあれば、もう少しクリアにいろんなことが腑分けできるのだろうが、何しろ初めてなのでそんな簡単にはいかない、だから僕としては今のところ、細かい判断みたいなことはあとにまわし、そこにあるものをあるがままに受け入れ、それとともにとりあえず生きていくしかないわけだ。ちょうど空や雲や川に対するのと同じように。そしてそこには、ある種のおかしみのようなものが間違いなく存在しているし、それは考え方によってはまんざら捨てたものでもない、という気がする(村上春樹 p35-36)。

をとることについてのこの見方は読んでいてストンと納得できたし、「そんな風に思うのもよいな」と思った。ややもすれば、年相応に賢明にならなければいけない、という考え方に流されがちだが、実際の所、年相応の落ち着きや円熟味というものは、単なる加齢によっては自然と身についたりはしないだろう。他方、年をとり、時間を重ねたことで、既に経験したいくつかのことについては、それらが次回起こるときには要領よくこなすことができる、ということは確かにあるように思う。これまでに何度か経験した場面にまた出くわせば、その経験のない若者より、いくぶん上手に立ち回ることもできるだろう。それを村上春樹は「以前に一度でも経験したことがあれば、もう少しクリアにいろんなことが腑分けできるのだろう」と言っている。しかし、それくらいのことなのだ。村上春樹の考え方に従えば、例えば34歳を1年経験した人にとっても35歳の自分は生まれて初めて経験する自分なのだ。だから全てをうまく腑分けできるわけではない。従って細かい判断は後に回して、まずは35歳の自分という初めての体験や初めての感情は、そういうものだとあるがままに受け入れていくしかないのだ。
この考え方はよいと思う。というのも、この考え方に出会うまでは、年をとるということを直視せず、自分の人生を一種のルーチンワークのようにしてしまっていたからだ。言い換えれば、年をとることで、その年月の分だけ得た少しばかりの経験を蓄積し、波風起こさず、大きな失敗はせず、小器用に毎年毎年をこなしていけば一番よい、その繰り返しでいいと思うのが年相応の落ち着きを持つことだ、そんな風に思っている節が私にはあったように思う。おおげさに言いすぎかもしれないが、そこまでたいそうなことを考えていなかったにしても、34歳の自分と35歳の自分、36歳の自分に、たいした違いを感じていなかった。
  多分、その「違い」は自分で作るのだと思う。別に大きなことにチャレンジすることが必要だとも思わないが、36歳の自分で35歳のときの自分を越えていく、その「越えていく」作業自体が真っさらな経験だ。またその「越えていく」作業の中には、さらに年をとってから振り返れば多くの無駄もあるかもしれない。しかし、「それは無駄ではないのだよ。今やっていることが有用か無用か、そんなことは今はわからない。だからとりあえず受け入れる。黙々とやる」と村上春樹が教えてくれているような気がする。おそらく、やって無駄なことは何ひとつないのだと思う。一見、無駄に思えても、これは自分にはあわないとわかるということで前進しているのだ。その作業に文句を言わずやっていく。そういう年のとり方もおもしろそうだと思う。



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