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2017年5月2日火曜日

スイミングのログ 2017/04/24 村上春樹の本のこと

  • 2017/04/24/月曜日/晴  
  • 合計距離:1500m
  • 内訳:50m×10=500m. 150×5=750m. 50×5=250m. (うちビート板バタ足50mを1回)
  • 時間:1時間30分。
  • ランニングのクロストレーニングというサイトを見つけた。そこで書かれていることによると、ランニングのクロストレーニングとしてスイミングは有効らしい。私はスイミングを続けていきたい運動の第一にしている。もとをただせば、ランニングはスイミングができない日の代わりの有酸素運動といった扱いだったのだが、村上春樹の本を読んでからその比重が高まり始めた。
  • 村上春樹の本からは本当にたくさんのことを教えられた。特に前半部分。35歳になり勝手に人生の折り返しを過ぎたと感じていた私は、村上春樹が自身の生活のリズム(一日を過ごす上での彼の信条)について語っているサイトを何かの拍子に見た(これこれね)。そこで語られている内容に興味を持ち、彼の本を読んだことで35歳を過ぎてからの自分の残りの生き方に見通しをつける『方法』を学んだ気がした。『方法』というとわかりにくいかもしれない。言い換えれば、『生活する上でのルールを習慣とすること』だろうか。また、ことさら『方法』という言葉を使ったのは、今、話題にしている村上春樹の本を読んだところで、残りの人生が急にハッピーになるわけではないと思うからだ(そういう人生の悩みを一瞬で解決する知見や心の持ち方については書かれてはいない)。つまり、生きることの意味とか人生の価値とは何かという思想的な部分でその本から影響を受けたのではなく、むしろ生き方を見るもっと『別の視点がある』ということにその本は気づかせてくれたのだった。それについて、今思いつく言葉で書いてみると、私の残りの人生とは『衰えていく身体を使って私が一日一日積み重ねていく長期的作業』であって、その作業には『ルールを決め、それをリズムにのせ習慣にする』ということが大事な意味を持つのである。それを村上春樹の言葉を借りていえば、「自分自身を習慣の動物にする」ということだろう。そこには自分の心や肉体や人生を機械的に見るというか、物理的なものとして見るという視点があると思う。しかし、「自分自身を習慣の動物にする」ということは、習慣には機械的な反復という面が含まれるが、無味乾燥なものではない。というのも、例えば、村上春樹の場合はランニングがそれなのだが、彼が習慣としていることは反復ということと同時に、『自分自身が納得できることの積み重ね』ではないかと思うからだ。大事なのは自分が納得できることをを一つ一つ文句をいわず積み重ねていくことであって、そこには他人からどう見られるかだとか他人にどう思われるだろうかということは介在しない。また他人と比べることも必要ない。同じようにレースに出ていたとしても、登る山(自分が納得できるライン)が違えば目指すゴールも当然違ってくるのであって、そこにはそれぞれのゴールがあるだけなのだ。そんな風に残りの人生のことを自分の長期的作業と見定め、そこに自分自身で納得できるものを積み重ねていくこと(習慣にすること)、それは比較を必要としない自分にとって価値あるものを時間をかけて築き上げていくということなのだ。そういう可能性が35歳を越えた自分の中に残されていると村上春樹の本:『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで思い直すことができた。それはうれしいことだった。
  • さて長くなったが、村上春樹のこの本についてはまだまだ書きたいこと、文という形で自分の考えをまとめてみたいことがある。しかし、それはまたのじっくり時間をかけてからにしたい。とりあえず今はランニングを継続していることが何よりの読後の感想、つまり、本を読んだということによる著者への僕のリアクションだろう。
  • 付け加えるなら、「ルールを定め、それをリムズやペースに乗せ習慣にすること。つまり、継続するということの人生における意義」みたいなものに目を開かせてくれたということから見れば、このブログを始めたことと村上春樹の文章との出会ったこととは関係がある。とにかく、ネットの海をカチカチとやっていて上記のサイトとそれらを通じて村上春樹の本と出会えたことは、まさに思いがけない幸運だった。
  • スイミングのことに話を戻そう。上記の村上春樹の本を読んだことでランニングに対する心理的な比重は高まったが、今もスイミングを継続したい運動の中心にすることに変わりはない。むしろ、ランニングにはランニングの、スイミングにはスイミングのよさがあることに気がつき始めている。それがどういうことかというと、それぞれの運動が私にもたらす心と身体への影響(影響の与え方)が違うということだ。スイミングは、何よりも『水中』という酸素のない非日常的な空間を体験できるスポーツだ。さらに水中では音が少なくなり、浮力によって重力の感じる割合も減る。そうなってくると、水中では酸素に満ち溢れた大地とは身体の動かし方がまるで変わってくるのだ。何より『息継ぎ』をしなければならない。いくらプールに通っても(といっても多くて週3、4回程度だが)水を上がれば陸上で生活をする人間では、プールへ入るたびに『水に慣れるまでの時間。水の中での所作を思い出す時間』が必要となる。それが私にとって新鮮で心地よい時間だ。そんな風に感じるせいか、タイムとしては遅くなっても、水の中では泳ぎだしてから後半、身体が適度に疲労して余計な力が抜けてからの方が楽に泳げているような気もするので不思議だ。他方、ランニングは酸素いっぱいの大地を蹴りながら黙々と走る感じだ。しかし、黙々といっても、常に息が吸えることはとても安心感がある。そうやって黙々と走っていながら、周囲の音や景色、光の変化などをさーっと五感で感じながら色んなことを考えたり考えなかったりするのがよい。それはちょっとした瞑想状態とでもいえるのかもしれない。そんな時間がたまに訪れる。いずれにせよ、どちらをやるのもまだまだ飽きる気がしない。この辺りのこと(特に周りの景色や音と五感で感じながらもそれをさーっと流している感じ)についても、もう少し文にして考えなければいけない。
  • ただし、そのようにランニングのよさを認めつつも、なぜ私がスイミングを継続したい運動の第一に置いているかというと、それは単純に肉体的なダメージが偏るという理由からだ。というのも、スイミングの方が水の負荷が絶妙で、素人がやっていて故障が少なく全身をむらなく鍛えられそうだと思うからだ。他方、ランニングはいかによいシューズを履いて、いかによいタイツを履いたとしても、何千回何万回と大地(アスファルトならばもっと悪い)に脚を叩きつける行為の繰り返しだからだ。付け加えるなら、道路のそばを走るのは呼吸するのにも空気が悪く交通事故の危険もある。端的にいって、素人がランニングを始めて膝なり腰なりを痛めることはままあるが、素人がスイミングを始めて肩が上がらないほどクロールできる人はあまりいないのではないだろうか。こういう話題は反論、異論がありそうだが、今の所私はそう思っている(それには『同じ所をぐるぐる廻っていてさほど苦痛を感じない』という私の性分もおおいに関係があるだろう)。いずれにせよどのスポーツにも十分な安全確保、安全確認が必要だということは言を俟たない。
  • 冒頭のクロストレーニングのことに話を戻すと、スイミングに比重を置きつつも、ランニングとスイミングの両方をやっている私には上記のサイトやクロストレーニングという考え方は大いに参考になったので、今日のプールは、そのサイトに書かれていたことにおおむね従って泳いでみたというわけだ。

  • 発熱した子供を病院へ連れて行った4/17(月曜日)から徐々に自分の体調が悪くなっている。運動をきちんと続けたいので4/19(水曜日)に医者へ行ったがなかなかすっきりしない。運動のできないことでストレスを感じてしまう。それはよくない。そしてまずは身体を治さないことには始まらない、と自分に言い聞かせている。
  • 次回のドリル:肩を回したクロールのかき方の練習。肩を動かすことを体感するためにバタフライをやってみること。できないことを恥ずかしがらずに。そしてターンの練習も忘れずにやりたい。 

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