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2018年3月6日火曜日

チャールズ・ディケンズ『大いなる遺産』

 ディケンズの『大いなる遺産』を読了した。村上春樹が『走ることについて語るときに僕の語ること』という本の中で、「最初から最後まで才能が枯渇することがなく、作品の質も落ちないという、本物の巨大な才能に恵まれた人々」(数行後にはそういう人々のことを「巨人たち」と言い換えている)の具体例として、「シェイクスピア、バルザック、ディケンズ」の名前を挙げていた(文庫 p121)。そこで、「そういえばディケンズはまともに読んだことがないな」と思い手に取ってみた。

 訳者のあとがきに「わたしはわたしの数多い訳書のうち、いちばん懐かしい、いちばん好きな作品として、この訳書を若い方たちに贈ります。だれはばからず、思いきり哀れみ、愛し、憎み、激しく蔑み、ほんとに怒り、笑い、思いきり泣いてください。そして、ただ笑いと涙に流されてしまうだけでなく、作者がこの作品の中に魂こめて描きこんだ作者のメッセージを読みとるひとも何人かあってほしい。それは、すべてのひとは、幸福であり、豊かである権利がある、ということです。それをふみにじるものをば本気で怒り、抗議し、糾弾することです。ディケンズのように!」(大いなる遺産、文庫(下) p449-450)とあって、「うーん」と思ってしまった。私はそんなに感情移入して読めなかったし、「作者のメッセージ」を読み取れなかったな。30代では読むのが遅すぎたのだろうか。大いなる遺産を残したのが誰なのか徐々に明らかになっていくあたりは、物語が佳境に入っていくので面白かったけど、そこへ行き着くまでの最初の150ページほどは淡々と読み流す感じだった。本来なら、そこでも大いに泣き笑い、怒り悲しみしなくてはいけなかったのかもしれないが、そんな感情はわいてこなかったな。下巻に入ってからの後半は、なんだか全体的に灰色なムードがただよってきて、さらには主人公の独りよがりな思考に共感できるところがなく「なんだかなー」って感じで終わった。

 ビディやジョーのたちのような、自らに与えられたもので淡々と暮らす人たち(素朴な誠実さを失わない人たち、相手より一歩でも上に立ってやろうなどとは思わないが、他人を思いやる気持ちの一番大事なところは絶対にはずさない人たち)の日常が延々書いてあってもよかったのにな、と思う。それではメインストーリーにならない、話に何の起伏もない、そんなのは外伝だ、というツッコミがあるのはわかるが、もう若くないのでそういう実直な人たちの話の方がよかった。ケガしたり人が死んだりする場面はなくていいわ。

 何だかさっぱりな感想しかでてこなかったが、ディケンズが偉大であるということはよくわかった。というのも、話が佳境に入るまでの、たいして面白くもない150ページほどを淡々と読ませるだけの文章が書かれていることにびっくりしたからだ。話としてはそんなに面白くもないし、たいした展開もないな、と感じるが、文章はちゃんと読めるものが書かれているのだ。そして、読み進めていくと、たいした展開もないな、と感じさせた箇所によって、作品全体の厚みが増しているということがわかってくる。読み終わってみると、そういうところに「さすがだな」と思わされた。思い返してみると、本を読んでいたころ、妻が「おもしろい?」と尋ねてくれる時が何度かあった。その度に「いや、べつにー(おもしろくもない)」と返していたのだが、それでも読み進めていけるだけの文章があり、登場人物たちは個性を持ち、その個性が物語をつなげていっていた。そういうのを作家の偉大な力、筆力があるというのだろうか。無茶な展開はなくとも、しっかり話は進んでいく。村上春樹によると「作品の質も落ちない」ということなので、ぜひ他の作品も読んでみたいと思った。

 しかしながら、妻に薦めるかと考えてみると、まあ薦めなくてもよいかな、と思った。現代人は忙しいからね。上下巻本だしね。なかなか面白くならない苦痛をさほど苦痛に感じずに淡々と読み進められる人にはお薦めできると思う。そういう、ある種の忍耐を読み手に強いて、かつ耐えさせるだけの文章を書いている作家の作品は、たしかに若いときに読むべきなのかもしれない。したがって、子供たちは、それなりの年齢のときに手に取ればよいのではないかと思う(まあ大人でも読めばいいと思うけど)。その時のためにも、もっとディケンズのことを絶賛できるように引き続き考えてみることにしよう。

 最後に、もうこれで定着しているから賢しらを言わなくていいとは思うが、『大いなる遺産』というのは、読み手に誤った印象を与える訳語だと思う。あんまり言うとこれから読む人の興を削ぐといけないので言わないが、「遺産」という日本語が与える印象と、この本の内容はぴったりしている感じがしないけどな。






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